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【読書メモ】ゲンロン0 家族の哲学

【読書メモ】ゲンロン0 観光客の哲学までの続きで、要約からスタートします。

今回の5,6,7章の要約はなかなか難しかったです。
めちゃくちゃになってしまっている可能性もあるので、ご了承ください。

目次

作品詳細

作品名:ゲンロン0
作者:東浩紀
出版社:ゲンロン
発売日:2017年4月1日

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

要約

第一部で解き明かした「誤配」を促す「観光客=郵便的マルチチュード」の延長線上の考察を「家族」の概念で支えられるか試みる。

その後「不気味なもの」「子供」を「サイバースペース」「ドストエフスキー」から読み解くが、これらはまだ荒く、草稿段階である。

主義の足場

各々の政治理論には足場となる主体・アイデンティティが設定されている。

マルチチュードには足場がなく、テロやデモなど「お祭り」しか生み出せなかった。

それでは新たな郵便的マルチチュード・観光客は、何を足場とすればいいのだろうか。それは家族であり、家族的連帯によって郵便的マルチチュードの戦略は支えられなければならない。

家族の可能性

エマニュエル・トッドは、世界各国の社会構造は家族によって規定されていることが明らかにした。二重構造論に取り入れることで新たな視点を獲得できるかもしれない。

柄谷行人は、現代社会の社会構成体と交換方式の分析によって、交換方式は「贈与」「収奪と再分配」「商品交換」であり、対応する社会構成体は「家族」「国家」「市民社会」に相当すると述べた。現代社会を批判するには新しい第四の社会構成体と交換方式が必要だと議論を展開し、詳しく論じていないが、第四の交換方式は贈与の「高次元での回復」となると述べている。

郵便的マルチチュードはまさしくその「高次元での回復」に相当すると考えられる。

「家族」というと聞こえが悪いかもしれないが、個人でも国家でも階級でもなく、自由意志で変更が不可能な概念は「家族」くらいしかないためであり、必要そうな特徴は備えており、「高次元での回復」にあたり論点になりそうな問題を3つ提示して終わる。

  • 強制性
    自由意志がないものが歴史的に足場となってきた。さらに、人は足場となるもののために死を受け入れ、死の可能性が政治の足場を作り出すと考えられる。
  • 偶然性
    ハイデガーの死の絶対性と運命の必然性に対置した出発点、出生による相対性・偶然性からの哲学を構想できるかもしれない。
  • 拡張性
    もともと家は拡張可能だった。経済的・情愛的で、種の壁を通り越してペットも家族化する人間の「憐れみ=誤配」まで許容する柔軟性を備える概念である。
不気味なものから情報社会論を

郵便的マルチチュードが現代ネットワーク理論を扱ったために、情報社会と観光客的・家族的主体との関係を考察する草稿である。

文学界から出てきた没入型の電子空間、完全に分化された「サイバースペース」に今も人々は引きずられているが、現実にはディックの小説のように、現実と「サイバースペース」の境界がなくなり曖昧になっていると見て取れる。

SNSの「本垢」「裏垢」の使い分けなどから、両者は完全に分化しているように見えるが、現実には炎上すれば特定され、虚構「裏垢」でしたことに現実「本垢」に引っ張られ歪みを与えていく構造はまさしく境界の曖昧化である。

フロイトは、不気味さとは、親しく熟知していたものが突然に疎遠な恐怖の対象に変わる、その逆転のメカニズムにあるとしている。「裏垢」という熟知していたものが、突然「本垢」に顔を出してくるのは「不気味なもの」そのものである。

したがって情報社会とは「不気味なもの」を基礎とするべきで、完全に分化した現実には影響を与えない「サイバースペース」など作れない。現実としてヘイトやフェイクニュースとして日常に表れだしているのは見て分かる通りである。

不気味なものから主体理論を

ラカン派の主体理論は「想像的同一化」「象徴的同一化」の組み合わせで構成される 。

  • 想像的同一化は、世界の中にある対象(イメージ)を見てとり、自分を重ね合せ、振る舞いを真似すること。
  • 象徴的同一化は、世界を構成するメカニズム(シンボル)そのものに同一化すること

ラカンは、世界にある対象(先生や親)を真似るだけでなく、世界のメカニズムを理解し、二重化を通して大人になるとしているが、現代は世界のメカニズムが弱く無くなりかけているために別の二重化・象徴的同一化が必要になっている。

それを乗り越えるために、ニコ生のような配信サービスで説明を試みる。

二コ生では、視聴者は出演者の議論を見ると同時に、視聴者のコメントも見ることになる。両者の性質上、出演者に想像的同一化をする一方で、コメントの空気に象徴的同一化することになる。視聴者はスクリーン上に「目と言葉」「イメージとシンボル」とが同時にスクリーン上で映し出される。

このようなイメージとシンボルの同時的な二重化が、スクリーンという「不気味なもの」から構築できるかもしれない。

ドストエフスキーの3つの主体

観光客の哲学の主体に、別の角度からアプローチを試みた章で荒削りながら結論まで達しているものである。

ドストエフスキーの「地下室の手記」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」を使って各主人公の状態を取り出せば、最後には郵便的マルチチュードの主体を見られると考えた。

地下室の手記」は、チェルヌイシェフスキーの「何をなすべきか」という空想的社会主義の応答として書かれたものであり、社会主義の偽善、理想主義者はユートピアに隠された倒錯的な快楽に気付き「地下室人」になることを指摘した。

かつてドストエフスキー社会主義を信奉した経験から、地下室人の拒絶と呪詛が必然的に生み出されることを体験したのかもしれない。

空想的社会主義者は、内なるマゾヒズムに目覚めると地下室人に変わる。理想を信じて世界に奉仕するのではなく、逆にその奉仕の背後に隠れていた倒錯を暴きたて、呪詛を並べ立てるように変わる。(p.274)

「悪霊」では、計算高く理知的なテロリストの指導者スタヴローギンが描かれる。彼は人々の欲望を巧みに操るが、全てに無関心な「無関心病」を患っている。そんな彼だが、過去には「地下室人」だったがマゾヒズムの極限で反転し、ニヒルなサディストへ目覚めたのである。よってマゾヒストである「地下室人」たちは、弱みの理解者であるスタヴーローギンに逆らうことが出来ない。

つまり、理想主義者から地下室人、そしてスタヴローギン。理想主義者からマゾヒスト、そしてサディスト。社会を変えたいと願う人間から社会を変えるなんて偽善だと罵る人間、そして社会なんてどうでもいいから好きなことをする人間へと「悪霊」までで3つの主体に辿り着いた。

スロヴローギンのテロは現代のテロとは違い、超人によるテロの指導で、IT企業家やエンジニア達が近い、現代のテロはむしろ地下室人のような破れかぶれの呪詛から発生していると言える。

ドストエフスキーの最後の主体

ドストエフスキーは、スタヴローギン=イワンを超える主体としての主人公を書く前に死んでしまっている。

カラマーゾフの兄弟」のまえがきによると、この小説には続きがあるとされている。「カラマーゾフの兄弟」ではこれまでの3主体全てが登場し、どれにも当てはまらないアリョーシャという人物が主人公とドストエフスキーは記している。

しかし、アリョーシャが活躍する場面は少なく、物語の最後の方で急に子供達が登場しアリョーシャが父として要請されるなど、謎な部分が多く伏線と見られる。続きの小説の草稿や構想メモが残されていなかったため、その物語を第四の主体と「カラマーゾフの兄弟」から推測する必要がある。

続きの小説は「象徴的な父」を殺す物語、皇帝殺しの物語である。「カラマーゾフの兄弟」単体ではおかしい部分を「続きの小説」の伏線とするならば、第四の主体は地下室人=子供たちに囲まれた不能の父になると言える。

スタヴローギンの後で、牙を抜かれた不能の主体になることは、無力になるわけではなく、世界を変えることを諦めていない。それは最後の主体が世界を変える子供に囲まれているからである。

子供は出生から偶然性の塊で、しかし自分にとって必然性の塊・親密なものでありながら、拡散・増殖し、見知らぬ場所から親の人生を切り崩す「不気味なもの」である。ならば必然になった子供が死んでしまっても代替が可能で、再び偶然を必然にすればいい、その運動を家族と僕らは呼ぶ。したがって、子供に囲まれた不能の主体は無力でないといえる。

 つまり僕らは世界に対して、理想主義者・地下室人・スタヴローギンでもなく、親が子に接するように接すると言う観光客のあり方を取り出した。現代の主体として、子であるうちには、3つの選択肢しか選べず、「親」として4つ目の生きる道を取り出した。

感想

めちゃめちゃ長くなってしまいました。申し訳ないです。

ただゲンロン0の5,6,7章はまとまりがなくて、僕の理解力と論理力がたらないせいで要約もちゃんと出来てませんし、読むのにめちゃくちゃ時間がかかるわで大変でした。

大枠は勧告客・郵便的マルチチュードなので、外れることはなく読み込めましたが、それでも難解に感じる部分が多く、話題になってたけどこんなの読める人があんなに存在するわけがないと思ってしまいました。自分の頭の悪さを棚に上げて申し訳ない。

それでも、時間をかければ5章の家族の哲学の部分はそれまでの延長線上に感じられて、まだスラスラ読めましたし、6章の「サイバースペース」とラカンの主体理論も草稿と言うこともあって、投げっぱなし感があってそのまま受け取っとけばいいんだろうなと軽く読めました。

難解すぎたのが7章のドストエフスキーの弁証論で、第四の主体を空想から取りだすところが、たぶん要約もとびとびだし、頭に???が浮かんだままな気がします。今度また読み直さないとって感じですね。

通しで呼んでみて、色んな考えの枠組みに触れられて頭つかえてよかったと思います。こんなに頭使ったの久しぶりでした。普段は適当に読んでてもなんとかなっていたので、すげー疲れました。たまにはこういう本もいいんですが、期間をあけないと頭ぱんくしちゃいますね。

あんまり人にはおすすめできない本です。たぶん積んじゃうと思うので。