【読書メモ】チーズと文明 中
こちらの記事の続きとなります。
目次
作品詳細
作品名:チーズと文明
作者:ポール・キンステッド
訳者:和田佐規子
出版社:築地書館
発売日:2013年6月10日
要約
ギリシャ世界のチーズ
B.C.12C頃に海の民にミケーネ文明を破壊されたギリシャは暗黒時代に突入するが、キプロスを通じて鉄精錬技術が流れ込んだことや、地中海の覇者フェニキア人が新バビロニア帝国に脅かされカルタゴへと退避したことで、ギリシャはB.C.8Cから空前の領土拡大をした。西はスペイン・東は黒海沿岸・南はアフリカ北岸まで広がり、地中海貿易によりフェニキアをはじめとする東方文化・宗教と接触し吸収・融合を果たす。
そのため宗教は近東とミケーネ文明から引き継いぎ、チーズも特別で中心的な役割を持ったことがアクロポリスから出土した碑文から読み取ることができる。
アイスキリデスやエリアンの当時の書物には羊の飼育とチーズ製法に加えてチーズの市場価格についても言及され、他の資料から高い税金がかかっていたこと、それでも高所得者は買っていたことが判明している。
オデュッセイアや当時の戦士の装備品を調べると摩り下ろしチーズが万能薬として機能していた。数百年経ってもギリシャ文化で宗教や行事に残ったことは、チーズの重要性をそれに見ることができる。
B.C.9Cと思われるホメロスのオデュッセイアの中にも植物性レンネット、B.C.350年前後のアリストテレスの動物史からは動物性レンネットによるチーズ製法が読み取れ、その後にシチリア島での今日に続く大型の熟成チーズに繋がっている。
ローマ帝国とキリスト教
ローマ・エトルリアの物語はB.C.5000年頃、B.C.3000年頃にはチーズ作りをしている証拠が地層から判断されているため、ローマ伝説より物語はだいぶ遡ることになる。
エトルリア人はB.C.2000年末には高い治金技術を持ち、貿易による他地域との交流が盛んになり支配者層が力を持った。同時期にはリコッタチーズを作るのに適したミルク沸かしという19Cまでアペニン地方で使われていたイタリア半島固有の陶器が見られる。
B.C.1000年代後半にはミケーネ文明や中央ヨーロッパの文化が流入、さらに暗黒時代を抜けたギリシャの植民市建設からも文化を吸収したエトルリアは、急激に変化して少数の貴族階級支配の都市国家を成立させた。より強くなった上流階級はカルタゴ・ギリシャと積極的に交易網を広げ経済力もつけていくことになる。
この紀元前最後の1000年でリコッタチーズは減少し、レンネット凝固による熟成チーズの増加がミルク沸かしとチーズ下ろし金の出土の増減で分かっている。時代の流れによって遠距離交易に耐えるチーズへと変遷していったことが伺える。
人口増加によって南下したエトルリア人はローマ人を1世紀に渡り支配して、都市を開発した。そこから忍耐強く全てを学んだローマ人は、大ギリシャの良いところと融合させB.C.6Cにはエトルリア人を追放し、強大化への道具も全て揃える。宗教もギリシャを引き継ぎ、チーズのケーキを供物として捧げたためチーズは重要な位置にあり続けた。
ローマ人はB.C.3Cまでに半島ほぼ全体を支配し、北はケルト人・南はギリシャ植民市とカルタゴがおり、チーズ利益や穀倉地帯のシチリアを巡りポエニ戦争を起こし3度目にはカルタゴを滅ぼすに至る。
地中海西部の覇者となったローマの農業は、ポエニ戦争による荒廃で小麦で利益の出ない農地となり、羊やヤギの酪農へと変わる。シチリア島が穀倉地帯だったことや海上輸送でこれまでより小麦の輸送費が安くなるなども酪農への後押しとなった。
長いローマ帝国時代、多くの学者が農業へ羊・ヤギの導入と運用、チーズの製法について工夫を凝らし洗練させた。 この時代に出来た大型熟成チーズはこれまでに無い新たな種類のチーズで、資料が少ないためガリア人・ローマ人・ケルト人か他の民族なのかはわからないが、ヨーロッパにてチーズ製法が進化したことは間違いない。
もう一つの帝国、キリスト教はこうしたローマの中で発展を遂げるために様々な試練があった。合理主義的なギリシャ世界を継承したローマではキリスト教は一神教であルコとや合理的でない部分があり、信者が増えだしてから313年のミラノ勅令まではキリスト教は弾圧され続けた。
キリスト教内部での派閥争いや各地域でのキリスト教と土着宗教との融合では、チーズが儀式に出てきたり、解釈の仕方にチーズ製法の一部が使われるなどチーズを引き合いに出した論争を多く引き起こした。
チーズ多様化の時代
領土拡大を続けるローマは次第に食料や警備を維持できなくなり、奴隷=労働力を確保できなくなった。対抗策として小作人に土地を永久賃貸するが、重税がかかるようになり、破産し土地が貴族へと集中して荘園へと変遷していった。
その後ゲルマン民族からの侵略が激しくなり貴族は自分の荘園へ逃げ込み、奴隷と小作人に労働させる構造が出来上がった。5C末になると西ローマ帝国は滅ぼされ、制度システムがゲルマンへと受け継がれた。小作人の中には新しい領主に土地を差し出すことで庇護下へ加えて貰うものもいた。7Cにもなると貴族だけでなく修道院も荘園を手に入れることになる。これがチーズづくりと密接な関係を作っていくこととなる。
キリスト教は西ローマの滅亡とともに勢力を失い、ローマの権力が届かなかったアイルランドの独自の発展をしたケルト的キリスト教会の宣教に苦しめられたが、教皇がベネディクト修道院に学び修道院を各地に建てベネディクト派修道院制度をとることで7~8Cにキリスト教は爆発的に広がり、9Cには神聖ローマ帝国の公認となる。
その爆発的な成長で清貧さが無くなった揺り戻しとして11~12Cにシトー派修道会が起こり、両修道会はヨーロッパの経済発展とチーズ史へ大きな足跡を残すことになる。
修道会の持つ典型的な荘園では仕事が特に多かった主婦にチーズ作りも任された。北西ヨーロッパはギリシャと違い寒冷で飼料が足りないことから一軒あたりの牛の数は少ないがミルクを長く保存できた。そのため何軒かで集まってチーズを作ったものだと考えられる。チーズはミルクの保存期間・レンネットの分量・凝固時の温度が関係して、構造や質感や酸味が変化するため多彩なチーズができたものと考えられる。
ここから人間は工夫を凝らしてチーズ製法を学んだと考えられる。白カビチーズ・ウォッシュチーズなどは条件的に生まれていてもおかしくはない環境であった。実際、カール大帝の伝記からも白カビチーズかウォッシュチーズを司祭に出されたような描写があり真実味があると言える。
イングランドでは荘園が長く続き、現存する荘園直営地のチーズの資料はほとんどがここのものである。
ローマ支配の時代には半永久的に駐屯する兵士への供給としてチーズと羊毛の生産をして専門知識が蓄えられ、ゲルマン時代には混乱であまりすすまなかったものの、その後支配したアングロサクソンの王はローマ時代の農業経済基盤を継承し、家臣に荘園の形で土地を与えて年貢を納めさせた。その項目にはチーズも記載された。
ノルマン征服が完了すると大陸との貿易が始まり、経済合理性に基づいてフランドルとイングランドで分業が進んだ。北フランスの荘園の崩壊と村の分化と違い、イングランドでは荘園の合理化によって利益を上げた。
羊の羊毛とミルク両方を活用していたイングランドだが13Cにはこの2つは切り分けられ、「ミルク・チーズは牛」で「織物は羊」と分離し羊乳チーズは15C末までに姿を消していく。この頃のチーズ製法はより体系的に合理化され科学的に管理されるものへと変化していった。
一方でこの時代は、百年戦争・羊の病気・ペストの流行などによって労働力が減り、チーズ輸出の歴史を持つイーストアングリアに自国軍へのチーズの供給を任せたことや羊の病気で荘園制度の崩壊に繋がり、人は職を求めて都市へと集中していき巨大な市場ができることで資本主義的な自作農階級ヨーマンリーが誕生する。
ドイツ・オーストリア・スイス・フランスなどどこの国にも独自のチーズがあることは、その土地から市場までの距離・気候的条件・保管場所の違いなど多くの変数があったためで、中世末期の経済的な圧力と社会の変化がチーズ製造に影響を与えたことは間違いない。
感想
今日読めた場所まで要約しました。
本当はもう一章分読み進めたかったですが、間に合わなかったです。
明日ここに書き足そうと思います。
前回のまとめでチーズ生成は12000年も前の農業とほぼ同時に起こったことだとわかりましたが、強い文化・国が出来ることでチーズの質も上がり、ローマ帝国やケルトという強大な国でより工夫された遠距離交易に耐え・利益の上がる大きな熟成チーズへと変遷していく様は、さすが人類やることは今も昔も変わらないなと思わされます。
メソポタミアから始まったチーズ作りが各地に人がばらばらになった後に、独自の変化を遂げてまたギリシャ・フェニキア・エジプトの地中海世界において戻ってきて進化を遂げることろなんて時代ってすごいし、受け継いでいく人間もすごいなぁと思いました。
本当に知らないことばかりで新鮮に読める本で、頭の中でバラバラだった古代の世界史のことも繋がって僕にとって最高の本であることは、ここまで読み薦めても変わっていません。本当にすごい本だと思います。